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弥生時代の生活のようす


上毛町牛頭天王(ごずてんのう)遺跡や、上毛町桑野(こうげまちかの)遺跡など、
中期前半頃の大型堀立柱建物跡(おおがたほったてばしらたてものあと)を含む
大規模な集落などが発見されています。

大型建物は、山国川に面した崖上にそびえていて、中津平野・周防灘を一望できたと
考えられます。瀬戸内地方に流行した高地性集落と同じ効果があったと考えられます。


中国の史書である『漢書(かんじょ)』地理志では、倭(当時の日本のことを倭とよび、北部九州が倭に該当する)の記述で、紀元前1世紀頃には百余国に分かれていたとされていて大規模な集落や大型建物は百余国の一つの中心地であった可能性が高いといえます。

住居形態の変化や、環壕などの採用には生活様式の変化に伴って、
集団間の争いも反映されていたと考えられます。


築上町安武深田(ちくじょうまちやすたけふかだ)遺跡では、中期後半には小鍛冶(こかじ)ながらも鉄器製作を行っていた痕跡がみられ、後期前半(紀元後、「漢委奴国王」金印を授かった紀元後57年前後の頃)の鳥の絵を描いた土器も出土しています。
また築上町十双(ちくじょうまちじゅっそう)遺跡では、楽浪系土器や銀製品も出土しているので、伊都国(いとこく)を通じて大陸の文物を入手していた可能性もあります。


後期後半は、後漢書によれば、紀元後107年に、倭国王帥升(わこくおうすいしょう)が後漢王朝に朝貢(ちょうこう)しています。(帥升は伊都(いと)国王で、伊都国を盟主とする初期筑紫連合政権があったと考えられています。

連合政権は、やがて2世紀後半の倭国大乱を経て、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)(魏志倭人伝)に記述された239年魏へ使者を送った卑弥呼(240~248の間に死去)の記述からみて、2世紀末から3世紀初め頃に女王卑弥呼を擁する邪馬台国連合政権へと集約されたことが分かります。

弥生終末期から古墳時代初期の間の住居跡も多数発見されているので、倭国大乱後に新たに形成された集落もあるのでしょう。
吉富町の皇后石付近から出土する土器は、後期後半から古墳時代前期にかけてのものですので、この頃に海岸砂丘や微高地にも集落が形成されたと考えられます。また、岡為造氏資料中に弥生後期後半の壷が含まれて居ますし、矢頭田遺跡や幸子遺跡、今吉遺跡にもこの頃を中心とした時期の集落の可能性があります。








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